日本における火葬の歴史とその変遷 ― 古代から現代までの葬送文化の進化と社会的背景

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明治時代の火葬禁止と再開

1873年(明治6年)、政府は太政官布告により火葬を禁止しました。当時の政府は西洋化政策を推し進める中で、土葬を基本とする欧米の慣習を採用しようと考えました。しかし、東京府内の火葬寺や火葬所は直ちに「火葬便益論」という文書を提出し、火葬の衛生的・経済的利点を訴えました。

その結果、1875年(明治8年)に火葬禁止令は解除され、旧来の火葬場が次々と再開の許可を求めました。この際、政府は火葬場の運営条件を細かく規定し、特に都市部では煙突の高さを7メートル以上にすることを義務付けました。また、遺骨を火葬場内に埋葬することを禁止し、これはヨーロッパの火葬施設の運営方針とは対照的でした。

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近代的火葬場の誕生

京都では近代的な火葬場の整備が早く進みました。1878年(明治11年)、東本願寺と西本願寺は、京都市山科区上花山に隣接する火葬場を建設しました。この施設は一般にも開放され、1931年(昭和6年)には京都市営花山火葬場となりました。また、1904年(明治37年)には市費で蓮華谷火葬場が建設され、1926年(大正15年)から市の直営となり、京都市内の火葬を支える施設となりました。

全国的に近代的な火葬場が建設され、燃料は薪や藁が主に使用されていました。火葬は日没後に行われることが一般的で、遺族は翌朝に拾骨(骨拾い)を行う慣習がありました。

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拾骨と日本の「家」意識

日本では古くから火葬後に遺族が拾骨を行う慣習がありました。木や竹の長い箸を用いて焼骨を骨壺に納めることが主流となりました。これは「家」制度と密接に関係し、先祖代々の墓に納めることが日本の家族制度において重要な意味を持っていました。

昭和時代に入ると、1927年(昭和2年)に東京の町屋火葬場で重油炉が導入され、火葬時間が大幅に短縮されました。これにより昼間の火葬が解禁され、即日拾骨が可能となりました。この流れが全国的に広がり、火葬や葬儀の時間帯に変化をもたらしました。

地域による拾骨の違い

日本の火葬場は遺体を火葬する場として機能しており、葬儀は自宅や寺院、斎場で行われた後に遺体が運ばれるのが一般的でした。火葬後、遺族は火葬炉の前で拾骨を行いましたが、東日本と西日本では拾骨の方法に違いが見られました。

東日本ではすべての焼骨を骨壺に納める習慣がありました。一方、西日本では主要な部分のみを骨壺に収め、残りの骨は火葬場に残すという慣習がありました。この違いにより、東日本の骨壺は直径20センチ・高さ26センチと大きく、西日本の骨壺は直径8センチ・高さ10センチと小型でした。

座棺から寝棺への変化

拾骨の方法も時代とともに変化しました。座棺の時代には火葬後も焼骨は一塊で残るため、拾骨の手順は特に必要ありませんでした。しかし、寝棺が普及するにつれて、遺骨の形をなるべく原型のまま保つようになり、遺族は竹の箸を使い、足から頭部へと順に拾骨する方式が定着しました。

また、「のどぼとけ」と呼ばれる第二頸椎が特別視され、故人と血縁の深い者が拾って骨壺の最上部や小さな袋に納める習慣が生まれました。この慣習は日本独自のものであり、拾骨の文化における象徴的な要素となっています。

火葬場の近代化と名称の変遷

1953年(昭和28年)から1963年(昭和38年)にかけて、町村合併が進む中で、旧式の火葬場の閉鎖や新設が相次ぎました。火葬炉の近代化が進み、燃焼効率の高い炉が導入されるようになりました。

また、新たに建設された火葬場では「火葬場」という名称を避ける傾向が強まりました。現在、日本の火葬場の約半数が「斎場」という名称を正式に採用しており、葬儀施設との区別が曖昧になっています。これにより、火葬場は単なる遺体の焼却施設ではなく、遺族の弔いの場としての側面も強調されるようになりました。

火葬場の機能と遺族の関わり

近年では、一部の火葬場で火葬炉に施錠し、鍵を遺族に預けるケースも見られるようになっています。これは、遺族が故人とともにあるという意識をより強く持つための配慮とも考えられます。また、環境への配慮から、最新の火葬炉では排煙処理技術が発達し、有害物質の排出を抑える仕組みが採用されています。

まとめ

日本の火葬文化は、時代とともに変化しながらも、遺族が故人を大切に弔うという精神を根幹に持ち続けています。今後も技術の発展とともに、より環境に配慮した火葬施設が求められていくことでしょう。

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