お塩使わないの!?お葬式では必須でしょ!?真宗大谷派の清め塩について

おはようございます。私は現役火葬場職員で、「火葬ディレクター」です。
日本には13宗56派もの仏教が存在し、諸派や新興宗教を含めればその数はさらに増えます。今回は、鎌倉時代初期の僧である親鸞が提唱し、真宗大谷派として継承された浄土往生の教えに焦点を当て、その中で重要な役割を果たす「清め塩」について探っていきたいと思います。

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真宗大谷派の見解

葬儀においては、清め塩を用いず、例えばお棺の上に刃物を置いたり、火葬場の行き帰りで道を変えたり、また家に帰るとお清めと称して死の穢れを払うために塩をまくなど、仏教の教えとは異なる迷信が様々な形で行われています。これらの習慣やしきたりは、各地域で根付いており、当然のように実践されていますが、その中には亡くなった方を否定的に扱ってしまう可能性があることに気づく人は少ないようです。

例えば、「清め塩」は今ではほとんどの葬儀で見受けられ、会葬者にもお礼状と共に渡されています。そして、この「清め塩」を用いて「お清め」を行うことが、多くの人にとって当たり前の行為と考えられています。しかしながら、「塩」が一体何を清めようとしているのか、疑問が残ります。

「清め」という言葉には、何かの「穢れ」を取り除くという意味が含まれているでしょう。それに従うと、葬儀が穢れた行為であり、亡くなった方が穢れた存在と見なされることになります。生前には愛され、親しまれてきた方を、亡くなった瞬間に「穢れたもの」として扱い、「お清め」することは、非常に悲痛で無残な行為と言えるでしょう。仏教の教えにおいては、「死」を「穢れ」として受け止めることはなく、「死もまた我等なり」と受け止め、生死を超えたいのちを精一杯に生き抜くことが人間としての生き方であるとされています。

仏教の観点から見れば、「清め」の行為は亡くなった方を貶めるだけでなく、私たち自身の生き方にも曖昧さを生じさせる迷信であり、全く必要のないものであることが理解されます。このような行為が、亡くなった方を限りなく貶めてしまうことに気づく人は少ないかもしれませんが、その深刻さを共有し、尊重する視点から議論していくことが重要です。

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法名について

浄土真宗において、法名は宗祖親鸞聖人が自らを「釋親鸞」と名乗られて以来、男性は「釋○○」、女性は「釋尼○○」となり、必ず「釋」の字が用いられます。

この「釋」の字は、仏教を説かれたお釈迦さまの「釋」の字であり、仏弟子として生きることを示し、私たちに対して「生まれ意義と生きる喜びにめでたくあれ」との願いを表しています。

この「釋」を名乗ることは、世間や職業が異なっても、仏法僧の三宝の前においてすべての人が平等であり、「釋」を名乗ることで平等な世界を象徴しています。

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浄土真宗と他宗派のと大きな違い

浄土真宗と他の仏教宗派との最大の違いは、特に僧侶に対する規律の面において存在しています。浄土真宗は、僧侶に対して肉食や妻帯が許容され、従来の仏教戒律が存在しない点が際立っています。この点が、特に明治時代までの真宗を含む他の宗派との大きな違いとなります。当時、妻帯が認められていたのは浄土真宗だけであり、他の宗派では厳格な戒律に縛られていました。

浄土真宗の独自性は、親鸞から継承された本願念仏の理念に基づいています。親鸞は、「一般の僧侶」や「世間内で生活する仏教徒(在家)」からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが浄土真宗の本願念仏であると認識しました。この理念を実践するため、親鸞自身が僧として初めて公式に妻帯し、子をもうけたことがあり、これが浄土真宗における妻帯の許容の由来となりました。従って、浄土真宗には、血縁関係による血脈と、師弟関係による法脈といった2つの系譜が存在しています。また、与えられる名前も通常の戒名ではなく、法名と呼ばれています。

浄土真宗は、阿弥陀如来の力に頼り、全ての人が往生できるとする教えに基づいています。このため、多くの宗教儀式や習俗に縛られず、報恩謝徳の念仏と聞法を重要視しています。また、加持祈祷を行わないのも浄土真宗の大きな特徴であり、信者は阿弥陀仏の慈悲に帰依し、念仏を称えることを中心に宗教生活を営んでいます。

最後に

火葬や葬儀は異なるルールが地域、宗門、宗派、火葬場ごとにあります。また葬儀を進行する宗教者のお考え方もあります。
ご自身、ご家族やお身内で分からないことがあれば、所属のご宗派、地域のお住いの自治会や組合の代表の方にお問合わせて頂くのが良いと思います。

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