まだ未解明も多い!?日本の古墳時代の葬儀

こんにちは、火葬ディレクターです。

古墳時代の葬儀の画像
古墳時代の葬儀の画像
  1. 古墳時代の葬儀
    • 前期古墳時代:古墳時代の初期、つまり前期古墳時代では、自然の丘陵や尾根を活用して古墳が建造されました。これらの古墳は一般に大規模で、竪穴式石室が主流でした。竪穴式石室は地下に掘った竪穴の底部に石室を設け、そこに遺体や副葬品を納める形態です。副葬品には呪術的要素が強く反映され、鏡や玉、剣、鉄鏃(やじり)などが多く見られました。これらは死者の社会的地位や個人の能力を象徴し、また死後の生活を保証するという信仰が背後にありました。
    • 後期古墳時代:時代が進むと、横穴式石室が主流となりました。これは丘陵の斜面に直接穴を掘り、その中に石室を設ける方式で、小規模な古墳が多く建てられました。また副葬品としては、家型・動物・人物等の形をした埴輪が増えてきました。埴輪は死者を守護する役割や供物としての役割がありました。
  2. 「古事記」(奈良時代)に見る日本の古代の葬送儀礼
    • 「古事記」は奈良時代の作品で、日本の神々や英雄の物語を記録していますが、それと同時に、人々の死とその後の葬送儀礼についても詳細に記述されています。その中には、人が死んだ後に行われる長い期間の鎮魂の儀式が描かれており、これを殯(もがり)と呼びます。殯の期間中、死者の鎮魂のために食事を供し、死を悼む歌を歌い、踊りを舞いました。殯は生と死の間の期間とも考えられ、死者を丁寧に扱うことでその魂を穏やかに送るという考えが背景にあります。
  3. 厚葬から薄葬へ
    • 厚葬:厚葬とは、古代の豪族や天皇家に見られた豪華な葬儀のことを指します。巨大な古墳を築き、数多くの副葬品を納めました。このような厚葬の風習は、儒教の伝来とともに6世紀頃から徐々に減少しました。そして「大化の改新」の後の646年には、「薄葬令」が出され、厚葬はほぼ廃れることとなりました。
    • 薄葬:薄葬とは、権力者の葬儀に多くの財や労力を費やすことが民衆に過重な負担をかけるという考えから、そのような厚葬を避けるようにという考え方を指します。薄葬令により、巨大墳墓の建造、殯(もがり)、挙哀(しのびごと)などの風習が徐々に消えていきました。しかし、民俗の中では殯や泣き女(雇われて葬儀で泣き、悲嘆を表す女性)などによる挙哀の風習が生き残る場合もありました。

なお、イスラム教の伝来(610年)も葬送儀礼に影響を及ぼしました。ムハンマドが創始し、アラーを信仰し、コーランを読むこの宗教では、火葬は基本的に行われませんでした。そのため、それ以降の時代においては、火葬という形式の葬送儀礼は大きく減少しました。

※古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史時代区分のひとつで、紀元3世紀から7世紀までの時期を指します。この時代は、日本列島において古墳と呼ばれる巨大な墳丘墓が築かれ、豪族や王族の埋葬や祭祀の場として重要な役割を果たしました。

古墳時代は、主に古墳の形状や副葬品から大きく時期分けされています。以下に代表的な時期と特徴を挙げます。

  1. 前方後円墳時代(3世紀末から4世紀): 最初の古墳時代の時期であり、前方後円墳と呼ばれる特徴的な古墳が築かれました。豪族の墓とされ、副葬品には鉄製品や須恵器(すえき)が見られます。
  2. 前方後方墳時代(5世紀初頭から6世紀): 前方後円墳に代わって、前方後方墳という新たな古墳様式が現れました。この時期には大王や豪族の墓とされる巨大な古墳が築かれ、副葬品には鏡や鉄剣、勾玉(まがたま)などが含まれます。
  3. 方墳時代(6世紀末から7世紀): 方墳と呼ばれる方形の古墳が築かれるようになりました。この時期には朝廷の政治的中心地が大和地域に移り、王権の確立とともに古墳の規模や豪華さが増しました。また、仏教が伝来し、仏教関連の副葬品が墓から見られるようになりました。

古墳時代は、日本の国家形成の初期段階であり、豪族や王族の支配が強まり、地域間の交流や文化の発展が進みました。また、古墳には壮麗な壁画や埴輪(はにわ)なども取り入れられ、古墳文化が栄えた時期でもあります。古墳時代の遺跡や出土品は、日本の古代史や考古学の研究に重要な資料となっています。

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