現役火葬場職員の火葬ディレクターです。
古代から行っていたと考察される葬送儀礼と文化と歴史を記事します。
原始時代の葬送儀礼
北イラクのシャニダール遺跡から発見されたネアンデルタール人の墓地は、原始時代の葬儀の一例です。人骨の周囲から見つかった花粉は、死者を埋葬する際に花を供えていた可能性を示しています。この事象は約4万年前、中期旧石器時代を示していると考えられます。
中期旧石器時代の特徴的な葬儀は、主に屈葬であり、副葬品として石器や玉類、海産物の存在が確認されています。屈葬とは、死者の腕や脚を折り曲げて、しゃがんだ姿勢で埋葬する方法を指します。これは、座葬とも呼ばれ、世界全体に普遍的に見られる埋葬様式です。
屈葬を選択する理由は、文化や民族により異なりますが、以下のような理由が一般的に挙げられます。
- 伸展葬(直立の姿勢で埋葬する方法)に比べ、小さな墓穴で済むという実用的な面。
- 死者に安らかな死後を期待して座位、つまり休息の姿勢をとらせるという精神的な面。
- 屈葬が母胎内の胎児の姿勢を表し、死者の母胎への回帰、そして再生を表現するという象徴的な面。
- 死者の復活を恐れ、呪術的な観点から死体を縛って埋葬するという理由。
また、後期旧石器時代には、中期よりも明瞭な墓と、より豊富な副葬品が発見されています。これは、この時代にはより意図的な埋葬が行われたことを示しています。
さらに、墓穴の中に死者を置き、その上に石を置いて埋葬する方法もありました。これは霊を鎮める目的で行われ、抱石葬と呼ばれます。
以上が原始時代の葬儀についての詳細で、これらの知識から人類が死と向き合う姿勢や文化の変遷を垣間見ることができます。
日本の葬送儀礼
1.縄文時代 縄文時代の葬法の特徴は、屈葬が主流であったことである。しかし、その葬送儀礼的な要素についてはほとんど知られていない。ただし、土器や石斧などの副葬品、人骨の近くで焚火の跡や焼灰が出土したことから、墓前で何らかの儀式が行われた可能性が示唆されている。
2.弥生時代 『魏志倭人伝』には、葬送に関する記述が存在する(3世紀後半の日本の様子を記した文献)。その中では、人が死ぬと十余日間喪主は哭泣し、他の人々は死者の周りで歌い踊り、酒を飲む。そして、死体は棺に納められ、塚を作り、埋葬が終わると、家族全員が沐浴すると記述されている。このように、弥生時代には葬送儀礼や墓前祭祀が行われていたと推測される。
3.古墳時代の儀礼 三世紀後半からは「古墳時代」と呼ばれる時代に突入し、豪族の巨大な墳丘墓(古墳)が造られた。この古墳時代は前期(5世紀後半まで)と後期(5世紀後半から7世紀)に分けられ、石室の構造や副葬品などに大きな変化が見られる。
前期の古墳では、自然の丘陵や尾根を利用したものが多く、竪穴式の石室が主流であった。副葬品としては、呪術的要素が強い鏡や玉などが一般的であった。後期の古墳では、主流となったのは横穴式石室で、小さな古墳が建設されたのが特徴とされています。また、副葬品も家型や動物、人物等の形をした埴輪が置かれるようになった。
これらの古墳に代表されるような手厚い葬法を厚葬と称します。これは主に有力者、豪族、天皇家などの人々が行っていました。
4.「古事記」(奈良時代)に見られる日本の古代の葬送儀礼 人が死んでもすぐに埋葬するのではなく、長い期間(時には白骨化するまで)死者の鎮魂を行っていました。これを殯(もがり)といい、その間には死者に食事を供し、死を嘆き悲しむ儀式が行われていました。また、食事を供することで死者を生者同様に扱い、死者の霊を慰める歌や踊りも行われました。このような行為は、医者が死を診断する現代とは異なり、死を受け入れるまでに時間がかかったためと考えられます。殯は生と死の境界線の期間といえるでしょう。
厚葬から薄葬へ変化
5.厚葬から薄葬へ 厚葬は6世紀頃から儒教文化の影響で減少し始め、「大化改新」の後、646年に「薄葬令」が出されて厚葬は廃止されました。薄葬は「権力者の葬儀に多くの財や労力を費やす事は民衆に過重な負担をかけるのでやめよう」という考えから生まれました。
その結果、巨大な墳墓、殯、挙哀(悲嘆の気持ちを表し、礼拝すること)、誄(しのびごと)(死者を慕い、その霊に対して生前の功徳などを述べる言葉)が次第に消えていきました。しかし、民俗においては殯や泣き女(葬儀で泣き、悲嘆を表す女性を雇う習慣)などによる挙哀は存続しました。
一般民衆の葬送儀礼
一方、一般民衆の場合、中世頃までは山の麓や川原などに死体を捨てる、死体遺棄に近い形が一般的で、死者の霊魂を鎮めるための墓を作ることができたのは上層階級に限られていました。
※イスラム教 (610年設立):ムハンマドが創設し、アラーの神を信じ、コーランを読む。火葬は基本的に行われない。
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