壮大な歴史アリ!?葬儀と密接な仏教の起源はなんと紀元前500年前!!

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仏教の伝来と葬儀

仏教の伝来と葬儀の画像
仏教の伝来と葬儀の画像
  1. 仏教の伝来
    仏教は文字通りに解釈すれば、「仏の教え」を意味します。紀元前500年前後にインドのシャカ族の王子であるゴータマ・シッダールタ(別名: 釈迦仏、釈尊、仏陀)によって開かれた教えで、その後中国に宗教として広まり、日本に伝来したのは538年とされています。

日本における仏教の発展を促したのは、聖徳太子の活躍が大きいです。聖徳太子は仏教に深い理解を示し、「法華経」などを翻訳し、「十七条の憲法」を制定しました。また、四天王寺・法隆寺などの寺院も建立したことで知られています。聖徳太子は仏教を学問的に研究し、一方で国家鎮護のためにも仏教を信仰したと言われています。

  1. 南都六宗
    奈良時代には中国から様々な教学が次々に伝来しました。その中で、三論宗(さんそうしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りつしゅう)の5つの宗派は「南都六宗」と呼ばれます。これらの教義はそれぞれ特定の教学を表し、宗派というよりも学派といった意味合いが強いです。例えば、三論宗は中論・百論・十二門論の三つの論について研究する学派であり、華厳宗は「華厳経」を研究する学派です。伝来当初の仏教はその主な目的を教義研究に置いていました。奈良時代の仏教は国家仏教であり、国家鎮護の役割を担い、国分寺・国分尼寺が建立されました。
  2. 日本における仏教の葬儀
    日本における仏教の葬式(火葬)が初めて行われたのは、700年頃の僧道昭とされています。僧道昭は玄奘三蔵の指導のもと法相宗を学びました。法相宗では、一切が認識によるものと説く学派で、僧道昭も座禅を学んだとされています。彼の遺言により、自身の死後、遺体を火葬するように指示があり、弟子たちによって火葬されました。
  3. 持統天皇が703年に亡くなり火葬された時、その葬儀には仏教が深く関わっていました。天皇の遺詔により、葬儀は倹約が求められ、素服と挙哀は禁止されました。素服とは質素な白服を指し、これを着て喪に服すことを意味します。また、法会が行われ、初七日、中陰、百か日の法要が行われました。諡(おくりな)という称号の贈呈も行われた(これは後の戒名の起源とされています)。
  4. 奈良時代の僧侶
    奈良時代末期は政治的な抗争が多く、暗殺や謀反が頻発し、無実の罪で亡くなる者も多かった時期です。疫病の流行や天変地異などが起こり、人々はこれらの厄災が怨霊によるものだと信じ、御霊信仰が広まりました。この信仰は、非業の死を遂げた者たちを祀り、その霊を鎮めようとするもので、菅原道真などがこれに含まれます。

※「法相宗」(ほっそうしゅう)は、日本の仏教宗派のひとつです。法相宗は、古代インドの仏教学派である「法相宗」(Abhidharma)を源流とし、日本に伝わりました。法相宗は、7世紀に中国から日本に伝来し、その教えは日本の仏教文化に大きな影響を与えました。法相宗の教えは、唯識思想や諸法無我などを中心に展開され、仏教の理論的な体系を構築しました。法相宗は、修行の中心として座禅を重視し、また経典の研究や講義、論争を通じて仏教の教えを解明しようとしました。そのため、法相宗の寺院では学問と修行が盛んに行われ、学僧や禅僧たちが活躍しました。また、法相宗は、日本の寺院建築や仏像彫刻にも多くの影響を与えました。法相宗の特徴的な寺院建築様式や仏像の制作技法は、日本の仏教美術の中でも重要な位置を占めています。法相宗は、現在も日本国内に多くの寺院や信者を持つ宗派として存在しており、仏教の教えや修行法を通じて人々の救済や悟りを追求しています。

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まとめ

奈良時代の僧侶は、国家鎮護を大きな役割としていました。僧侶になるには政府の許可が必要で、出家者の人数は天皇が決定し、僧侶の生活費や運営費は朝廷が負担していました。このような僧侶は官度僧と呼ばれ、今日の公務員のような立場にあったと言えます。そのため、許可を得ずに出家することは禁止されていました。しかし、僧侶になると税金を免除されるため、私度僧が増え、民間仏教が盛んになりました。この動きをリードしたのが聖や菩薩などの宗教指導者で、彼らは民衆から慕われました。中でも空也はその頂点に立ち、東大寺の建立にも貢献しました。彼は「阿弥陀票」や「市聖」とも呼ばれました。

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